写真日記

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2009-3/10〜3/15 記入掲載分

波野スフィンクス(波野行者山)登山(10日)


波野行者山は私が子どもの時から慣れ親しんでいる山です。
「からと水道跡」から仰ぎますと、動物が伏しているような形に見えます。

そうして「からと水道」の歴史を研究していきますと、この山は古事記では「獅子」と記され、
万葉集では「我が勢(わがせ)」という表現で詠まれていることがわかってきました。

また、遠くエジプトのピラミッドテキスト(壁画)には
「うねる水の道の巨大なライオン」というような表現で
記されていることがわかってきました。

エジプトの古代人達がピラミッドやコフィン(棺桶)に
呪文のように記してまで訪れることを夢見た聖地でもあるのです。


山跡の最新状況をお知らせしようと、
本日は登ってみることにしました。
すべて本日撮影の最新状況です。
カメラの三脚が荷になるので手持ち撮影でブレまくっていますが、ご勘弁を。^^。




木地(きぢ)への登りです。新道路の橋がだいぶ出来ています。
向かって左側の方に、まだ繋がっていない部分があり、
開通には当分時間がかかると思います。

ここは万葉集に詠まれています。

万葉集 35番歌
「これやこの 倭にしては 我が恋ふる 木地にありといふ 名に負ふ勢の山」

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頂上へは右側のガードレールの道を登って行きます。

この登山道は、よほど知った人でないと迷いますから、
この道ではなく、東側の道から登山するといいです。

今回は参道遺跡のチェックを兼ねてこちら側から登ります。


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こんな感じで登って行きます。
このコンクリート道の終点部分を左に登って行きます。
画面でもわずかに見えています。

いま撮影者が立っているこの地点あたりが本来の木地の道の高さでした。
今の新道を造るために、だいぶ掘り下げられています。
また、入山地点に「道祖神(賽の神)」が祀ってありましたが、それは
画面向こうのビニールシートの丘に移されています。

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では、登って行きましょう。




この道は両側が土手のようになっていて、本来の参道跡です。

森の小道という感じで♪♪♪な気分ですが・・・・・。
それも束の間。

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このへんは私が小学生だった頃は杉や松の散在する雑木林でした・・・。
竹の猛威がどれほどのものか。

進路を遮る枯れ竹を、またぐか、くぐるか・・・
こうした状況の道がしばらく続いて行きます。



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この辺は私が十数年位前に竹をほとんど伐採しましたから、雑木林です。
またそろそろ竹の伐採をしないとあちこち出て来ています。

でも・・・そうして守って行っても、何ににもならないんですね・・・一銭にもならない。
そうして考えると、もう難儀しなくとも、竹山になっても放っておくほうが気楽かなとも思います。

ちなみに古老の話してくれた昔の話しですが・・・
ご飯を炊く竈が使われていた時代には「落ち葉」でさえ採り合いだったそうです。
落ち葉は焚きつけにいいですから。
燃料がプロパンガスになった時から、山は打ち捨てられてしまったんです。

それでも自然の薪などで風呂をわかしたりする人もおられるようですが、
伐採採取から薪割りをして保存、そして実用、と全過程を踏むにはなかなか難儀です。
私などついついその「難儀度」と「ガス代」とを天秤にかけてしまいます。

なお、竹を燃料にすると火力が強いので釜の耐用年数が大幅に少なくなってしまいます。
しかし、竹を火力発電なんかに利用できないかなと思ったりもしますが・・・無理でしょうかね?。


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ここは平地になっています。ここにかって仁王門(山門)が在ったと言っても、
誰も信じてくれないとは思いますが・・・。いちおう書いておきます。

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多少のカメラブレは愛嬌です。^^。

かってここに、右下から左上に向けて長大な石段が築いてありました。
大昔に解体されて跡地の土手だけが残っているものです。
その土手を横方向から見た写真です。
解体した石段の石材は、ある神社に再利用されています。
この土手は人工的な築造物なんです。

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石段のあったであろう土手の上で撮影しています。
画面の左右は両方が急傾斜地であることからも、
土を盛るか削って傾斜を合わせていったことがうかがえます。

つまり、ここに石段があって、向こうに向けて昇っていたわけです。

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しばらく、藪をかき分けて登りますと、東側から登っている道と合流します。
合流・・・と言うよりも、東側からの道に出る、と言ったほうがいいかもしれません。

合流地点からもなお石段跡の土手は続いています。
少し傾斜がゆるくなっています。下の写真がそうです。




いま撮影者が立っている地点に登山道がありまして、
本来の石段跡の脇を今の登山道が登っている、という感じです。

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今の登山道を登り方向に向いて撮影したものです。
右側の土手の上に平行して石段跡が登っています。
よほどこの山に慣れていないとわからないと思います。

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さらに登って行くと、道がスイッチバックのごとく急転回している地点があります。
ここがスフィンクスの鼻(口)の付け根です。

ここを真っ直ぐに左方向へとかき分けて行きますと、スフィンクスの鼻先に行けます。
私が下の竹を伐採した時に雑木を切って小道にしておいたんですが、
まだ薄っすらと道は残っているだろうと思います。

鼻先からはふもとの宿井(しゅくい)が見おろせます。
ただし、現状は雑木に遮られて見えません。
いつになるかわかりませんが、こんど余裕がある時にでも伐採しておきます。


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スイッチバックの所からは、こんな感じの道を登って行きます。
右側はかなりの高度で崖状になっています。

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この荒れた石段を登ったら、ようやく頂上です。
ふもとの賽の神の所から約30分位です。

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頂上は地域の人々が毎年手入れしているので綺麗です。
お堂の右側にある小丘が頂上地点です。

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以前この小丘の周りを歩いてみたところ、百数十歩でした。
ここは本来、古代の古墳であり、万葉歌を分析すると初代の神武天皇陵になります。
仁徳天王から神武天皇になるところが記録に違う訳ですが、それはともかく、
やがて下の香山から女王がここに改葬されます(上げられます)。
その女王が俗に言う般若姫でもあります。
お堂の所に葬ってあったのを古代に掘り崩したことは古事記にも記載してあります。
ここに今の般若寺観音堂の前身があったことは、古記録を分析すればわかります。

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昔は木造瓦葺の堂宇だったようです。今でも境内脇に昔の瓦が積んであります。

コンクリートブロック造りと言えども、私が小学生の頃から
ブロック造りで存在していましたから、意外と年数が経っています。

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役の小角(えんのおづぬ)
詳しいことは「海風想」のほうにも記しています。

私がこの像を修復した頃はお堂内部の石積みから外が見えるほど荒れたお堂でしたが、
今では内部をステンレス板で囲われまして、小角さまもさぞかしご満足なことでしよう。

この「役の小角」は万葉歌に詠まれていますから、万葉以前の実在人物であることがわかります。
別名を「神変大菩薩」とも申しますから、この像こそ神武天皇の姿です。
そして両脇に従える赤鬼青鬼は、日本書紀に詳しい方ならすぐに連想されることでしょう。
たとえば、日本書紀「雄略天皇・二年十月」の段に「身狭村主青(むさのすくりあお)」と、
「檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)」の二人を寵愛(ちょうあい)した、とあります。
つまり、青鬼が推古天皇、赤鬼が「博徳」であり聖徳太子を意味しています。

この二人は神武天皇からすれば敵方の子どもになるわけです。なぜ敵方の子どもを自分で育てたかと考えますと、
その答えは光市光井から島田川を経由して三輪から柳井市伊陸へと侵攻した時からすでに出ています。
すなわち、占領地である初代ヤマトに身を置いている自分自身を守るための身の代なんです。
やがて二人が成長してオトナになった頃、「赤」は暗殺されます。そうした事は古事記の方に歌にして記してあります。
「青」が詠んだと思われる歌ですが、その歌の内容は「(暗殺を)知らないと思ったら大間違いだぞ」というような意味です。

やがて神武天皇は自分が育てた子ども「青」に夜床で暗殺されます。


その暗殺方法の公開については私自身随分悩みました。しかし、将来に歴史で誤解を招く恐れがあるため、
事実を正確に書いておきます。事実の進行過程は古事記の歌に記してあります。
そして、暗殺方法は「ヤマトタケル」の段に記してあります。女性と言えども勇敢なヤマトタケルなんです。
つまり、ヤマトタケルの段にありますように、夜床で相手の隙を見て尻から剣を突き刺します。
この方法ですと外傷が残りません。相手を殺して家屋に火を放ち、屍を焼いておけば
検視の時には事故による焼死で片付きます。今ですと解剖しますから即座にわかってしまいますが、
古代には解剖まではしなかったのでしょう。

暗殺が無事に済んだらすぐに火を放ちます。証拠を残さないためにです。
歌には「〜燃ゆる家群我が家の辺り」という一節があります。
暗殺が済んで火を放ったら、一目散に遠くへ離れます。
関係者達も火の手が上がるのを遠くで見て、成功を知ったのだと思います。


その暗殺も憎い敵と言えど育ての親を殺すわけです。
女性ゆえのためらいも相当あったようで、
一二度はできなかったことが日本書紀には遠回りで記してあります。
しかし、そうまでして苦労した暗殺も薄々知られたようです。
やがて初代ヤマトの地は今に至るまでも再起不能にまで落としめられます。


この山の小角さまは全身オトコですが、
地域によって半男半女の姿をしているのは、歴史的な意味があるのです。





そうすると神武天皇を祀ってある神社はどうなるのかという事については、海風想にも書きましたが、
祭神名が「神武天皇」になっているのは
「神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれひこのみこと)からの派生がほとんどのはずです。
それは神代に名を換えていますから、正しくは「神武天皇」ではありません。
しかし、今さらそれを問題化する必要もありませんし、神武天皇のままで構わないと思います。
敵方と言えど、一国を治めた主であり、天皇だったことに間違いはないのですから。



では、なぜ憎い敵方の神武天皇を仏像として祀ったのかは、それも古事記に記してあります。
古事記で天皇と呼ばれた人の数を数えてみますと、三十三人います。
仏教に精通しておられる方なら「三十三」という数は特別なものがあると思います。
観音霊場は三十三ヶ所ですし、また、我々が観音経と一般的に呼んでいる
「普門品第二十五」には観世音菩薩が三十三回登場します。
そして極めつけが「三十三体観音」です。
「三十三体観音」とは、文字通り三十三体の観世音菩薩が集まっておられるわけですが、
教義では珍種の観音さまとしてあるため、ご覧になったことのある方は少ないかもしれません。
いずれ「海風想」で詳しく解説するつもりですが、
一般的な観音霊場に安置してある観音さまは七観音を中心としてあります。
そして、その七体の観音さまの散在する寺院(霊場)を集めたものが三十三ヶ所霊場です。
七観音を並べてみますと次のようになっています。

聖観世音菩薩 (しょう かんぜおんぼさつ)
千手観世音菩薩 (せんじゅ かんぜおんぼさつ)
馬頭観世音菩薩 (ばとう かんぜおんぼさつ)
十一面観世音菩薩 (じゅういちめん かんぜおんぼさつ)
准胝観世音菩薩 (じゅんてい かんぜおんぼさつ)
如意輪観世音菩薩 (にょいりん かんぜおんぼさつ)
不空羂索観世音菩薩 (ふくうけんじゃく かんぜおんぼさつ)


観世音菩薩の本来の姿は「聖(正とも)観世音菩薩」です。
時々によって自由自在に姿を変えることができます。そのため「観自在菩薩」とも言います。
姿を変えた観世音菩薩を「変化観音(へんげかんのん)」と言い、様々な変化観音があります。

七観音の七という数は七日周期を表し、今でも観音さまのご縁日として、七日周期の日あてがあります。
場合によっては六観音と言うこともあるようですが、六観音は天台宗を起源としており、
比較的新しい呼び方です。ちなみに六観音の場合は不空羂索観音を除いた六体になります。

今で言う一般的な三十三観音霊場とは、
これらの七観音のいずれかを安置する寺院を三十三ヶ所として集めたものです。

ですから、三十三体観音は七観音とはまた別物の変化観音です。
そして、それらの三十三体の観音さまを研究してみますと、どうも古事記から来ているらしい
という部分までわかってきました。もっとも、当初は逆ではないかと思いました。
変化観音を基にして、それらに三十三人の天皇を当てはめたのではないかと思っていました。
どうもそうではなく、天皇の人数に観音さまを当てはめた、つまり、三十三体観音のそれぞれが
天皇のそれぞれなんです。

では、本文の神武天皇は何観音になっておられるのかと見ますと、
どうも「多羅観音(たら かんのん)」ではないかという部分までわかってきました。

この辺で三十三体観音が見られる所は周防大島・旧・東和町の法心寺と心月庵にあります。
法心寺のは良く整理されていて、鑑賞するのも参拝するのも良いところです。
興味のある方は、ぜひお参りしてみてください。


さて、
それなら七観音は何なのかと研究してみますと、
古事記に登場する「七乙女」であり、七人の女性達になってくるわけです。
ちなみに、「如意輪観音」を平仮名で書いてみますとよくわかります。
「ごといわ」です。
ということは・・・観音経は日本で編まれたのではないかと進行していきます。^^。


そうした訳で、敵と言えども国を治めた天皇であり、仏像にもなり得るわけです。


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古事記などの古代の物語は先ず歌(伝承歌)がありまして、
その歌を基にして物語に編んでいきます。
ですから、史実を克明に伝えているのは物語ではなく、歌です。
歌の解読や分析、そして進行的な並べ替えなどをして、初めて史実が浮かび上がるのです。





波野スフィンクスの頭頂です。
比較的平坦な広場になっており、東側に約1メートル程度の段差がついて、
東側が低く西側が約1メートル程度高い2段構成になっています。
2段どちらの広場も社寺を建てるとしたら十分な広さがあります。
広場の大側は石垣状の遺跡がほぼ円周にグルリと取り巻いています。
そうした状態は「海風想」に載せています。


広場の中心から約10メートル程度北側に下の写真の石があります。




「海風想」でも書いたように東を向いた人の頭です。

彫刻手法を見ると、目の部分を彫り下げて陰影を出し、
顔の表情を浮き上がらせるやりかたです。
一見、自然石のように見えて、実は彫刻作品であるという点に於いては、
石城山の夜泣石と同じ手法で彫ってあります。

ここから石城山までの距離は、現状では雑木に遮られて見えませんが、
大声で叫んだら届きそうなほど近接した距離です。

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石の高さは丁度1メートル。




グラハム・ハンコック
ロバート・ボーバル 著
「創世の守護神・上」

194ページの絵図。

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東側から見たもの

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北側から見たもの
裏側になります。

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西側から見たもの

石の傾き角度 55度 倒れそうに見えますが、昔からこの角度です。
向いている方位 90〜100度方向
向いている方向にあるもの・柳井市新庄の土穂石・及び、水口茶臼山古墳


こちらから見ると、口を裂かれた人の顔になります。
(古事記より)
「〜「汝は天つ神の御子に仕へ奉らむや」と問ひし時に、諸々の魚皆「仕へ奉らむ」と申す中に、海鼠(ナマコ)
申さざりき。ここに天の宇受賣命、海鼠に云ひしく、「この口や答へぬ口」といひて、紐刀もちてその口を裂きき。
故、今に海鼠の口裂くるなり。」


ここではアメノウズメノミコトが登場していますが、そのアメノウズメノミコトは
スサノオノミコトの「天の石屋戸」で諸々の神々を楽しませ、やがては
アマテラスを石屋戸から出した愛嬌のある神です。
そもそもスサノオノミコトの章は子どもの頃の思い出を書いていいます。
いろんな身近な人物に物語を背負わせる、と申しますか、
そうせざるを得なかった世相的な背景を考慮する必要があります。
こうしたことは私の著書「からと水道」に記しています。



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以下、歴史に関することは次のページです。
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2009-3/6 金
地神祭り




地域の地神祭りでした。
順番の当屋が八幡八幡宮にお願いして祭事をしてもらっています。
祭事が済んだら各家に写真の御幣さまが配られます。
頂いた御幣さまは良い日を選んでそれぞれの土地の
交差路(十字路)の場所に立てるのが慣わしになっています。
一般的に田んぼの畦道の交差したような所に立てています。


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「海風想」のページが繋がり難い時があると思います。
こちらのSAKURAインターネットの方へ替わろうかと思案中です。





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