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2026-1/15 木曜日 夜・21時

たまには古代史 16

本日は、三輪(美和)の大物主神について大事なことを少し補足しておきます。





↑ 三輪神社・拝礼殿




通常、一般的な神社の拝礼殿と神殿の方位は同じです。ところが、

三輪神社の拝礼方位は、拝礼殿と、神殿とでは、ほんの少し差異があります。

その差異の意味するものは、上図を見てもらえば一目瞭然です。

三輪神社の神殿・方位線と、拝殿・方位線線です。 赤丸は社寺です。 青丸は遺跡です。

ここの地形は人が横たわっている形をしていまして、神殿方位線側が頭です。拝殿方位線側が足です。


大物主神は古墳の出土品にも鉄剣を持っていましたが、仲間たちは銅剣に銅鐸の装備でした。

兵士全員が鉄剣なら良かったのですが、銅剣混在とあっては、初代ヤマトが負けた原因のひとつでしょう。

銅剣も銅鐸も銅製品の武器は役に立たなくなったので、兵士たちの思い出とともに埋葬したのでしょう。

ちなみに、銅剣・大量出土の荒神谷遺跡は、周防大島の嵩山の東側中腹にある 『 大悲閣 』 と呼ばれる寺院が指し示しています。







上の写真は三輪神社・境内の左側ほこら堂です。かなり大きいです。

前面方位が阿多田古墳になっています。推古天皇の初代陵墓であることは以前、解明しました。

大物主神が結婚したセヤダタラヒメという女性は誰であるのか、推古天皇でしょうね。



大物主神はエジプト人らしいと前回書きました。

国森古墳の四角い方墳が第一の根拠ですが、それ以上に、

「ピラミッド・テキスト」と、「コフィン・テキスト」の絵文字は初代ヤマトのことを書いてあります。

亡くなった人の御霊が初代ヤマトの地へたどり着けるようにという祈りをこめたようです。


グラハム・ハンコック氏の著書に『創世の守護神』という本がありまして、ピラミッド絵文字を

解読した考察が記してありまして、そこに出て来るドウアトの記述はほとんど一致します。

このすごさ、わかっていただけるでしょうか。


三輪神社のあるあたりを 『 ドウアト 』 と言っていたことは風土注進案に記載してあります。

簡単に説明すると、からと水道を中にして西側がドウアト、東側がドウマエです。


グラハム・ハンコック氏は、私が研究を始めるより前に著しておられますから、

この地に合わせて書いたということは無いです。すなわち、ドウアトはナゾの地なのです。





では、つづきにします。

おやすみ〜。








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2026-1/14 水曜日 午後

たまには古代史 15

あちこちの国々で暴動や戦争が起きている今、古代史を見ますと、

戦いの武器が変わっただけで、人というものは古代から

少しも進歩していないことに気付きます。


いくら平和を望んでも、攻め込んで来れば戦うしかないのです。

そして、常に武器を新しく更新しないと、負けてしまうのです。

初代ヤマトもそうして滅びる運命をたどりました。


先日、世界ロボット展のようなものがあったことをニュースで見ました。

中国だったか、さも誇らしげに、吊るしたスイカをロボットがキックで割る場面にはゾッとしました。

ロボット兵を大量投入されたら、と思うと、打つ手は無いですね。人類滅亡です。

そんなクソくだらん物を作らんでも、介護のオムツ交換をしてくれるロボットを作れよ。

交換してくれるだけじゃダメだ。 オムツ交換している最中にウンチが出る時もあるぞ。



こうして古代史を見ると、

人というものは太古から今に至るまで少しも変わっていないなと痛感している次第です。





57577調が多くを占める万葉集の中、漢詩が少し入っています。

なぜ漢詩なのかは、言うまでもないでしょう。

私の解読で説明します。


写真は、山口県下関市豊北町神田上、にある土井ヶ浜遺跡の海浜です。

この詩には多くの事柄が入っていますので、土井ヶ浜からは遠ざかりますが、詩の内容から説明します。


愛河の波浪しりぞき先ず滅ぶ

愛河とは、古事記の通称・神武東征の「皇后選定」の段にある物語から来ています。

美和の大物主神が、セヤダタラヒメという女性を好きになって、河を流れ下って結婚したという物語。

この神社も河も実在しています。現在の、光市三輪(旧称・美和)にある三輪神社は今も大物主神が祭神です。

そして、河は三輪神社のふもとをグルリと囲むように流れている田布施川(たぶせがわ)がその愛河です。

佐田に源流があり、三輪神社のふもとを流れて、やがて麻里府の海域に出ています。


実は、この大物主神の物語は、郷土史家や歴史家の間では忌み嫌われて来ました。

なぜ嫌われたかは、セヤダタラヒメが大便をしていた時にトイレで襲って逃げ回るのを追いかけて結婚したからです。

私もその物語には苦労させられました。 

私がパソコンを始める前、昔のこと、現地で調査していると笑われて嫌がらせを受けたりもしました。


ところが、ところがですよ、この物語には極めて大事なことが織り込まれていることに気付きました。

極めて大事なこととは、重要な遺跡や古墳 ( 墳墓 ) を採り込んだ物語になっています。

とにかく普通じゃないです。しかし、もうちょっとマシな物語を作れなかったのかなと (笑) 思います。


まず、田布施町・国森という所に国森古墳という四角形の方墳があります。

先ほどの田布施川のすぐそば数百メートルぐらいの距離の丘の上にあります。

一辺が約三十メートル、高さが約四メートルの方墳。


方墳は中東やエジプトの古墳を意味しています。

おのずと被葬者の出身地が推察できます。


出土品は、日本最小 ( 世界最小? ) の銅鏡。マグカップぐらいの径です。

それに鉄剣、その他。この方墳こそ、大物主神の初代の墳墓です。

初代の、と申しますのは、出雲へ改葬されているからです。

国森 ⇒ 出雲 ⇒ 近畿 の改葬順序になります。


出雲には西谷(にしたに)四隅突出型墳丘墓(下写真)というのがありまして、アメーバみたいな特異な形をしています。

本来は熱気球を作る時の型紙として使われていたであろう物を、改葬されて来る時に墳墓に利用したのでしょう。

熱気球の型紙だから、いろんなサイズが揃っています。 それに、地名が出雲でしょう。









つづきにします。

では、良い夕餉を。








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2026-1/12 月曜日 朝

たまには古代史 14

昨日の写経の件に追加します。

高野山の写経用紙のお願い事を書く欄は 『 願意 』 にしてあると思います。

そこんとこは無視して、ひらかなで 『 おねがいごと 』 と書いて、自分の事を書いてください。

ひらかなは純粋な日本の文字です。



さて、たまには古代史です。

他国の侵攻はどのようにおこなわれたか、を調べていきますと、現代と少しも変わっていません。

古代の侵攻を知るには、多くの古典籍を読破することが必要になります。

とりわけ万葉集は必須になります。 うへえ、また万葉歌か、などと思わずに読んでください。

ここでは、特に必要な歌だけをピックアップして解明していこうと思います。



万葉集には未だ解読されていない歌があります。

その歌が大事なんですが、解読不能としてあります。

私の見ている本は活字本です、活字本はけっこう都合合わせをしている面がありまして、

原典の写真本が欲しいところです。歌の解説は要りません、写真だけでいいです。

これは出版社のかたにお願いしたいです。



万葉集 巻第一 9番歌

莫囂円隣之大相七兄爪謁気 我が背子が い立たせりけむ 厳橿が本



この歌の前半部は訓義未詳として、解読不能としてあります。

では、一文字、一文字、それぞれの読み方から見ていきましょう。

の文字   モ バク マク な

の文字  ゴウ キョウ かまびすしい

の文字  エン まるい まろい まどか

の文字  リン となり となる

の文字   ゆく これ の この

の文字  ダイ タイ おお

の文字  ソウ ショウ あい

の文字  シチ なな ななつ なの

の文字  ケイ キョウ あに 

の文字  ソウ ショウ つめ

の文字  エツ エチ なふだ まみえる

の文字   ケ


ご覧のように、母郷まどかとなりし たいそう萎え 宋へつき・・・と、なります。


なお、元暦校本では「囂円隣之大相七兄爪気」となっているようです。

「祖郷まどかとなりし たいそう萎え 宋ゆき(宋行き)」・・・と、なり、意味は同じです。



この後の読みも大事です。

「我が急こし い建てせりけむ 五つ貸し賀茂と」

「吾瀬子之」方言が入っています。「我が急こし」・・・急かすという意味の方言です。

急かすとは、次の建てるにかかっており、室津半島に五社の賀茂神社を建てたという意味です。

「貸し賀茂」と読む根拠は古事記の歌にありまして、雄略天皇の赤猪子の段にあります。

「御諸の いつか志賀もと 貸し賀茂と ゆゆしきかも 橿原乙女」

滋賀とありますから、近江八幡市の賀茂神社を言っています。



万葉歌の結論として以下のようになります。

母郷まどかとなりし たいそう萎え 宋へつき 我が急こし い建てせりけむ 五つ貸し賀茂と

母郷まどかとなりし たいそう萎え 宋へつき 我が急こし い建てせりけむ いつか志賀もと


宋とあることにつきまして、中国の宋は紀元前と紀元後の二つの宋があります。

なんで同じ名をつける必要があったのかという不審点はぬぐえません。

どちらの時代の宋かということは、関係する遺跡の年代測定からわかります。


もし紀元後の南朝時代の宋としますと、日本の遺跡の年代と合いません。

遺跡の年代と合わせますと春秋時代の紀元前の宋であることになります。

日本での年代は通称縄文時代後期から弥生時代前期の頃になります。

その年代で設定すると各遺跡の年代とピタリと合います。


我々は縄文時代と言うと、原始時代みたいな感覚で語っていますが、

日本の文化がいかに古く、そして優れていたか、ということです。

世界各地から日本を目指して訪れていた、そしてそれらの文化を吸収した。

だからこそエジプト王墓の絵文字にまで畏敬の念を以って記してあるのです。


ひいては、なぜ宋は紀元後に同じ名をつけたのか、ということにまで言及できます。

そのことも万葉集に入っています。また懐風藻(かいふうそう)という漢詩集にもあります。

さらには仏教の経典にもあります。経典を読経すればわかりますが、みんな日本語読みですよね。


つづきは本日の夜までには書くつもりです。


では、良い休日を。



書こうと思っていましたが、寒波の襲来で不調、明日へつづきにします。











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2026-1/11 日曜日 朝

たまには古代史 13

昨日の竈山の件、竈山 ( 嵩山 ) で、もがりをして、長尾八幡宮の古墳に埋葬したのだろうと思います。

石棺の発掘された位置は、今の神殿の裏側、2〜3メートル地点です。



さて、万葉歌のこと、前々回に挙げた二十三首の歌は相当に古いものだと思います。

万葉集の中でも最古の分類に入ると思います。

そうでなくては、石城山に登って朝日を眺めながら涙する意味を知っているはずもありませんから。


万葉集に関する余談になりますが、歌の収集は、全国の社寺に奉納されていたであろう歌を書いた

木簡を集めて歩いたのだろうと思います。木簡を奉納する風習は今でも「 納経 」という形で残っています。

経文を書写したものを納めて御朱印を頂きます。しかし最近の観光参りでは納経の意味を取り違えていて、

御朱印を頂いて歩くことを納経という人もいます。 ほんのちょっと違うんですね。

願いを込めて書写した経典を、お賽銭と一緒に賽銭箱に納めることを納経と言います。

もっとも昨今は読経をして納経にすることがほとんどです。本来は経典を書写したものを納めるのです。

私は八十八か所参りに納めようと思って何百枚も書写しまして、我が家の仏壇に百枚ぐらい残っています。

今はもう老人性ふるえ症で書けません 苦笑 。


すなわち、歌を詠んで奉納していたことが始発になり、やがて、納経という風習になって残ります。

そして、やがては社寺に奉納された歌を書いた木簡を拾い集めて万葉集に編纂したのです。

だから、年代順はバラバラです。

歌を書いた木簡を残しておいてくれたら良かったのに、お焚き上げをしたんでしょうね。

永登銅山跡には歌を書いた木簡片が出土しています。



すみません、恐れていたように話が脱線してしまいました。



石城山から日の出を眺めて涙していた線上には長尾八幡宮と一緒に日見の大仏があります。

木彫仏として見ると大きいですよ。 周防大島に来たら一度は拝観してみることをおすすめします。

拝観料金を払って近付いて見ますと、やりがんなで彫った痕がたくさん残っています。

なぜ、こんな田舎に大仏を安置したのか、

その意味は五瀬命(いつせのみこと)の御霊の供養を切り離して考えることは出来ません。

別の寺社の由来は語ります。日見の木とい所から早戸大神を上関に勧請した、それが今の竈八幡宮です。


そうして考えますと、五瀬命はハヤトであり、南九州の出身になります。

神武天皇を祀る宮崎神宮を思うにつけ、侵攻方向はそっちじゃないんです。

そうすると、宮崎神宮の本祭神は、ハヤトであり、五瀬命と入れ替わっている、ということになってくるのです。

古代史研究家として、こうしたことを明かすのは、きわめて心痛するところです。



社寺の由来には、創建年と勧請年とがあります。

歴史解釈の多くが、勧請年を創建年と取り違えることが多々あります。

勧請というのは、新しい神を迎えることを言います。

つまり、昔の人にすれば、勧請する以前にあった神社に祀ってある神はどんな神なのかわからない訳です。

得体の知れない神というものは恐ろしいものですから、有名な神を新しく迎えて鎮座してもらえば安心です。

そうしたことから、多くの神社の由来には勧請年で記してあるのがほとんどです。

実際には、もっともっと古い由緒があるのに、です。



本日は、つづきにします。

次回は、初代ヤマトが侵攻されたことを書いてみようと思います。



では、良い休日を。







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2026-1/9〜10 土曜日 朝

たまには古代史 12

前回、橘の島とは周防大島のこと、というところまで進みました。

万葉歌には「橘の嶋の宮」とありますので、今回は「宮」について書きます。


宮を知るには、二十三首のなかに、次の歌があります。

177 朝日照る 佐田の岡辺に 群れ居つつ 吾等泣く涙 やむ時もなし

朝日の照る中で複数人が群れて涙しています。その時に、これらの歌を詠んだのでしょう。

朝日が重要な意味を持っていて、佐田の岡辺に登った理由は朝日にあるようです。

そこで、実際に佐田の岡辺 ( 石城山 ) に登って朝日(日の出)を見てみましょう。


石城山には複数の峰がありまして、それらの峰を総合して石城山と呼んでいます。

佐田地域から仰ぎ見る石城山は、石城山の峰の中で最高峰の高日が峰です。

そこに登って日の出を見ますと、周防大島から昇って来るのは秋冬春です。


日の出の位置に大事な意味があると察知しまして、日の出方位から社寺を見ました。

大事なのは太陽暦の 1月1日の日の出であるということがわかりました。

高日が峰から見て、1月1日の日の出位置は、周防大島の日見を通って安下庄 (あげのしょう)です。


もうおわかりでしょう。

日見 ( ひみ ) には日本最大級の木彫大仏が安置され、日見の大仏と呼ばれて親しまれています。

安下庄の長尾八幡宮は縄文・弥生遺跡に建っています。

大正五年、長尾八幡宮の社殿再建をした時、石棺及び骨片や祭祀遺跡が出土しています。

さらに、昭和三十七年、組合式石棺や祭祀遺跡が出土しています。



ここで、長尾八幡宮の古墳に埋葬された人物を特定しておきましょう。

特定するには、通称・神武東征を知る必要があります。

神武は侵略者ですから外れてもらって、大事な人物は五瀬命 ( いつせのみこと ) です。


手をやられた五瀬命は、平郡島の中手の入り江で手の血を洗います。中手という地名は今もあります。

近くの海域には「ハンド島」と呼ばれて来た無人島がありますので、中手は間違い無いです。

そして、「 紀国男之水門 」に至りて、五瀬命は悔しさのあまり雄叫び声をあげて亡くなります。


紀国とある場所が問題で、様々な解釈が出来ます。私は「 貴殿の国 」と解釈しました。

訳してみますと、貴の国の男の御門 ( きのくにの おとこのみかど ) です。


続けて訳します「 その御門を男水門というなり 」 ですが、ここでは「 之 」が省いてあります。

よって 「 ( おのみかど ) 尾の御門 」 と解読できます。長尾八幡宮の尾です。


亡くなった五瀬命が葬られた場所は 「 在紀国之竈山也 」 訳しますと「 貴の国の竈山なるなり 」。

私はここの部分の解釈を長年の間、上関町にある竈八幡宮と思い込んで苦労しました。

周防大島のとある由来記に「 木にあった早戸大神を上関の竈八幡宮に勧請した 」とありました。

五瀬命は早戸大神だったのでしょう。


そうすると竈山は何になるのか、と、何度も長尾八幡宮に参詣してヒントを探していますと、

ある時、長尾八幡宮からまさに仰ぎ見れる嵩山 ( だけさん ) が目に入りました。

嵩山は太古の火山活動によって形成された山です。まさに「かまど」です。

長尾八幡宮から出土した石棺遺跡は五瀬命の陵墓と遺骨であると、ほぼ断定できます。


そして、その陵墓の祭祀をしながら統治していたのが「橘豊日王 ( たちばなのとよひのおう ) 」

ということになりましょうか。私は、五瀬命と同一人物かと考えたこともありましたが、

五瀬命の陵墓を守護祭祀供養をしていたのが橘豊日王だという考えで安定しています。

そういう訳で、橘の島の宮は、周防大島・安下庄にある長尾八幡宮であると言えるものです。



では、良い 1日を。

いってらっしゃーい。










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2026-1/7 水曜日 夕

たまには古代史 11

私が古代史を始めたきっかけとも言えるのが万葉集の「佐田の岡辺」でした。

佐田という所は石城山 ( いわきさん ) の北側ふもと一帯にもあります。

歌には佐田の岡辺とありますので、当初は佐田八幡宮の丘ばかり見ていました。

しかし、佐田八幡宮の丘とすると、他の歌と合わない面が多々出てきました。


考え悩み暮らしていたある時、前回で登場した「大野の丘の上」がひらめきました。

古記録は「大野の丘の上」という表現であり、箕山という山の名で言ってはいません。

そうすると、佐田の岡辺とは、佐田地域の南側にある石城山を仰いで言っている。

そのことに気が付いたら、後はとんとん拍子に解けていきました。


179 橘の 嶋の宮には 飽かねかも 佐田の岡辺に 侍宿しにゆく


この歌は、「皇子の尊の宮の舎人等が慟傷して作る歌二十三首」とある内の一首です。

総合的に推察しますと、侵攻から逃げて疎開していた人たちが戦乱が収まり、帰郷して詠んだ歌です。

綿摘みの女たちが、初代ヤマトの子どもたちを引率して九州方面へ疎開して行ったことは歌にあります。

そうした女たちが帰郷して、戦乱で廃墟になった地で、栄えていた昔をしのび、嘆き悲しんで詠んだ歌です。


歌の意味は、橘の嶋の宮に飽きることはないが、佐田の岡辺に行こう、という内容です。

「侍宿(とのい)」とある言葉が問題になると思います。率直に申しますと、朝日が昇って来るのを待つのです。

その朝日こそが「橘」と思えばいいです。橘とはミカンの古名とされています。ところが、「みかん」も相当古い名です。

平城京跡から出土した荷札木簡には次のように記してあります。

 
周防国大嶋郡美敢郷凡海阿耶男御調塩二斗  天平十七年



 さらに、もう一つの例を挙げておかなくてはなりません。

 承平年間につくられた和名類聚抄 巻八 周防国第百十七条には、

大島郡は三郷名の記載があり、「屋代」「美敷」「務理」とあります。


 注目してほしいのは「美敷」の文字です。塩の荷札には美敢とあり、和名類聚抄では美敷になっています。

いったいどちらが本当の文字なのか、それを知るために双方の文字の使われた年代を西暦にしてみます。

 美敢  西暦745年に記された文字

 美敷  西暦931年に記された文字

 ごらんのように約二百年もの隔たりがあります。

その隔たりを見ても、年代の古い美敢の文字が本来の文字だとわかります。

みかん郷なのです。みかんは「橘」ですが、みかんを栽培していた訳ではありません。

みかんの意味は、前回採り上げた通称「天孫降臨」にありました朝日です。

美味しそうなミカンが昇って来る、すなわち「橘の島」と言われたゆえんです。


では、次回は、橘の島のの所在を探っていきましょう。



では、良い夕餉を。












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2026-1/6 火曜日 午後・夜 20時45墳

世界情勢

不安定な世界情勢にばかり気をとられていたら、いつの間にか 6日。

私ごときが世界情勢に腹を立てていても何も変わりはしないので、

自分の趣味に没頭しようと思ってはいるのですが、

やはり世界情勢は気になって仕方がないです。


昨日は新年詣でに行ってきました。初詣でではなく、新年詣でです。

詣でた所は、「 橘の島の宮 」 そう言うと、それは違うと言われそうな気がします。

いえいえ間違いなく、万葉歌にある正真正銘の 「 橘の島の宮 」です。


近日中に 「 たまには古代史 」 で書こうと思っています。

私の住む地域は、古代史などまったく無視です、逆に嫌がらせを受けるほどです。

そもそも、この日記を始めたのも嫌がらせの守護神として、始めたほどですから。


もう、かれこれ、20年以上も経ってしまいましたが、

書くうえにおいて、社寺などの許可はすべて頂いて歩きました。

自由に書いて構わないけれど、間違っていたら反論するよ、ということでした。

当時、許可をくださった神職さんや住職さんも、20年以上を経た今となっては

世代交代されている所も少なからずあるようです。


また、諸々の由来は風土注進案などの古記録に書いてあることが全てであり、

それ以上のことを訊かれても、大昔のことは説明のしようがないと言われました。

要するに、頼れるのは自分の知識と見識、さらに勘、ということになりましょうか。



では、本日はもう寝ます。

おやすみ〜。







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2026-1/4 日曜日 夕

諸々の親戚関係者の集まり、とどこおりなく済みました。

ひとり者ゆえ、おせち料理など考えも及ばず。

次からは何処かに食べに出ようかなと思ったりしています。

とりあえず済んで、ひと安心。


ベネズエラのアメリカ軍の侵攻動画を見て思うこと。

侵攻がいいか悪いかは別問題として、戦地でヘリを飛ばしてますよ。


ヘリの危険性は、ウクライナ戦で嫌と言うほど見ましたよね。

ヘリは、ほんとあっけなく撃墜されてしまうのに、ひぇぇ〜、こわい、知らぬが仏か。

アメリカさんも、もう、戦闘方法が旧式になってしまっているのかなと思いました。


戦車もダメ、よほど装甲が強くないと、積んでいる砲弾に誘爆して数十メートルの

高さまで砲塔もろとも吹き飛ばされる。砲塔と一緒に人間が舞い上がって、

地面にベチャッと落ちる動画を見た時には、ほんと心底こわいなと思いました。


アメリカさんもトランプは一考する必要が多大ですね。



では、良い夕餉を。






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2026-1/1 木曜日

新年おめでとうございます。

本年もなにとぞよろしくお願いいたします。

私の YouTube チャンネルリンクです。

https://www.youtube.com/watch?v=3WhuLmXn2g8




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2025-12/30 火曜日

YouTube で、この 1年を感謝します。

https://www.youtube.com/watch?v=AlXutjxyKUw






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2025-12/29 月曜日 夕

買い物に

午後、お正月用の物を買いに出かけました。

神仏にお供えする正月餅など。

年越しそばは、どん兵衛の天ぷらそばと、でか盛り焼きそばにしました。

そばならいいでしょう、という気分で、ひとり者のぜいたくです 笑。

どん兵衛そばを食べながら年を越します。


あぁ、ガラケーなら外部は昔のままで、中身が最新のがありますよ。

いろんなタイプのガラケーがあるみたいなので、店に相談してみるといいです。

私が使っているのは折りたたみガラケーだけど、中身が最新対応なんです。


私は買い替える時、スマホにするぞと決めていたのですが、

いざ、スマホを買って使ってみると、もう全然いけないんです。

電話をかけるには電話の画面をわざわざ出さなくちゃいけないし、

電話番号を打つのに指がふるえると、ゼロゼロゼロゼロになるし、

こんなんじゃー急用の時には絶望的だなと危機感を感じまして、

再びガラケーの最新式のに買い替えました。長年使って来たガラケーと

そっくり同じタイプのがあったのはラッキーでした。


電話機であるという基本的な部分を忘れてしまったスマホなど要らんです。

私にはガラケーがいちばんいいのです。



では、良い夕餉を。







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2025-12/28 日曜日 午後

たまには古代史 10

かささの ひなたの たちばなの おどの あわぎはら



伊保庄・厳島神社

イザナギが禊(みそぎ)をした所は、今の伊保庄マリンパークです。

そこには小さな祠がたくさんあるでしょう。 そこもいずれ採り上げますが、その前に、

伊保庄マリンパークのすぐ隣りに伊保庄・厳島神社があります。

この小さな社殿は初代の厳島神社になります。

なぜ初代と言えるかは、この社殿は水口茶臼山古墳の鬼門守護神で祀られているからです。

古墳時代の創建であることは、社殿ふもとの海浜にある石彫遺跡にも表われていました。


私はそれらの遺跡を乱開発から守ろうとして、必死に本を書いて各所に無料配布しました。

市町村の教育委員会や寺社等々。 その頃にはまだ遺跡群は健在だったのです。

ところが、まるで私の必死の思いをあざ笑うかのごとく、次々と遺跡は破壊されていきました。

ばちあたりなことです。 今回はそれらの内のひとつを載せてみます。



これはフィルム写真で、平成の始め頃( 1990年代 )に撮影したものです。

厳島神社の下の海浜にありまして、東向きで朝日を浴びて、神社はこちらですと指し示しています。


周辺には丸いマユ形の大きな石がたくさん散在していました。それらのマユ形の石は養蚕のマユを意味しています。

だから社殿が白いでしょう。対する前回の大野八幡宮も白い社殿ですが、そちらは綿花・コットンの白を意味しています。


・・・砂浜も真っ白くて、それはそれは美しく、まさにいつくしむ海浜でした。・・・ところが・・・




2008年に訪れて、この惨状を見た時、私は悲鳴があがりました。

あ〜っ、コンクリで固められてる。

ここにこんな防波堤なんて必要ない、左側に残る旧防波堤で充分なんです。




厳島神社の参道を指し示していた遺跡は崩され、防波堤に埋もれてしまいました。




すぐ前は火力発電所で埋め立てられているのに、こんな防波堤なんて、いらんです。

たくさんあったマユ形の石は防波堤の礎石にされてしまったのでしょう。

どこかのひとのふところをうるおしたのでしょうね。ばちあたりなことです。

四代の木埼にも杭が打ってあったので、あそこも全滅かな?もう行ってみる気にもならんです。




今年の 「 たまには古代史 」 は、これで終了します。

新年になって、また気が向いたら書き始めようとおもっています。


日記のほうは、もう少し書きます。

では、良い夕餉を。








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2025-12/27 土曜日 午後

たまには古代史 9

推古天皇(女性)の陵墓はまず大野の岡の上にあって、後に科長の大きい陵墓に移します。

それは、もがりの儀式を意味していることは前回書きました。

もがりの儀式とは、一定期間、埋めておいて骨になるのを待ちます。

何年間も埋めておいて、骨になった頃に掘り出して遺骨を海水で洗い清めて本葬します。

骨になるまでは何年もかかりますから、本葬までの長い期間の間に陵墓(古墳)を築造します。


古事記にある大野の岡(丘)の上で、もがりの儀式をしています。

その痕跡が下の写真の石囲いです。

この石囲いの中に遺体を安置して、土を被せて埋めます。

土が被せてあった証明として、入口付近の石と、中の石の風化量が違います。










上の写真は、囲いの中から入口と境内を撮影。




赤矢印が本葬された古墳のある所です。阿多田古墳(あたたこふん)と言っています。

下の写真は阿多田半島を拡大した図です。




古事記には、後遷科長大陵也、のちにしながのおおきみささぎにうつすなり。

赤矢印の所に阿多田古墳と呼ばれてきた前方後円墳があります。それこそ、科長大陵です。


エンピツで線をひいているのは、遠方の社寺からの拝礼方位線です。この正確さには驚かされます。

阿多田古墳は 2点からクロスさせて指し示しています。いかにこの古墳が大事だったかわかります。


科長には、もうひとり、用明天皇が埋葬されています。科長中陵、しながのなかのみささぎ。

もうおわかりでしょう。エンピツ線の真ん中の縦線、の所にありました。今は工場になっています。




平生町教育委員会・資料より引用測量図。

海の波に浸食されたか、だいぶ崩れているようです。



私は現地に入ろうとして何度か試みましたが、下の写真のように草木が生い茂り、困難でした。

この丘(島)の上に推古天皇を埋葬した阿多田古墳があります。

やがて、いつの時代にか近畿へと改葬されて行ったようです。






阿多田島は、国道 188号線、尾津 (麻里府) から見ることが出来ます。




つづきにします。

良い夕餉を。







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2025-12/26 金曜日 午後

外では晴れ間から粉雪がちらついている寒い午後です。

いちおう晴れているので、洗濯物を干してみました。


たまには古代史 8

だいぶ溜まってきたので、近いうちに別ページを作って移そうと思っています。

可能な限り簡略化して、わかりやすいようにしているつもりです。


今回は大星山の北側隣りにある箕山について書きます。

箕山は大星山と同化しているような山で、大星山の頂上からは見おろす感じの山になります。

箕山の北側ふもと一帯には平生町大野 ( ひらおちょう おおの ) が広がっています。

箕山を語るには、その大野が重要な意味を持っていますので、

大野から箕山へ登って行くルートで解説していきます。




北側の大野から見上げた箕山です。

下の図は写真とは逆向きになります。



大星山も箕山も車でラクに登れますが、古代史を志す人は大野から登られますように。

大野経由は神護寺までは車で登れます。

その神護寺は推古天皇・創建で極めて重要な意味を持っています。



この写真は三十数年前の写真です。今は新しく建て替えられています。

私としては、この古い堂宇のほうが好きだったので、この写真を載せました。


この寺を今は神護寺と呼んでいます。

古記録では、松蓮寺で記してあり、それが今の神護寺です。

名を変えた由来は、明治時代、石城山に在った神護寺が廃寺にされた時、

この松蓮寺と合わせて神護寺と呼ぶようになりました。



享保年中編纂の『防長寺社由来』より。

 周防国 熊毛郡 大野村 真言宗 阿曽山 松蓮寺 

 当寺建立は人王三拾四代推古天皇御宇唐僧恵窓和尚開基と申伝候、往古は末寺数々有之、

琳聖太子御代より寺領五百石被附置候処、大内家破滅の節知行捨り申候由、縁起等代々連綿仕候へ共、

四代已前秀山出奔の節より一向相見不申、世代旁の儀も委細ニ相分り不申候事。   



箕山に登るには神護寺前の小道を徒歩で登って行きます。

下の写真が道中の登山道です ( 約三十年前の写真 )。

オフロードオートバイならラクに登れると思います。






神護寺から登って行きますと、上図の小道の所に出ます。

いま駐車場になっている広場は昔からこんな広場でした。


鳥居をくぐって少し登ったら、神武さぁと呼ばれている境内になり、箕山の頂上です。

問題は境内にある「通夜堂跡」と呼ばれている石囲いです。


これは、昔に行なわれていた「 もがり 」の儀式を意味しています。

皇座山の自然葬の進化であり、もがりなら遺骨を採れます。

実地で継承されていると言ってもいいほどの進化形です。


古事記によりますと、推古天皇 ( 女性 ) の陵墓は大野の丘の上にあり、

後に科長 ( しなが ) の大きい御陵に移した、とあります。



つづきにします。

良い夕餉を。








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2025-12/25 木曜日 午後

メリークリスマス

かの国では宗教間の争いが絶え間ないですが、日本は仏教に神道、さらにはキリスト教。

日本の各家々には平然と神が祀られ、お仏壇が祀ってあります。

いろんな宗教をとり入れて平穏な日本の宗教ですが、かって中世の頃には

神道派と仏道派とで対立を繰り返し、ようやく今の平穏があるのです。



たまには古代史 7

前回のページはこちら。

前回、大星山は天孫降臨 ( 通称 ) に関係していると申しました。



「 天孫降臨 」という名は、活字本を見やすくするために現代人が名付けた段落名称です。

上の写真の赤色カッコの部分が今の活字本の天孫降臨の段落分けになっている所です。

活字本にある段落分けは、古事記原典では上の写真のようにすべて連続した記述になっています。

つまり、「 天孫降臨 」という熟語は古事記原典には存在していません。


こうした部分は原典を見ないで活字本だけで判断しますと、大きな誤解が生まれるもとになります。

出版社は活字本にせずに、原典の写真本で出版してほしいものです。 これはぜひお願いしたいです。




大星山に関係した記述は、通称・天孫降臨の段にありまして、上写真の赤カッコの間です。

室津半島を中にして、「 天忍日命 」 は東側を意味します。 「 天津久米命 」 は西側を意味します。

今でも周防大島には大友大権現と呼ばれているお寺がありまして、「 おおとも称 」が残ります。

対する西側の周南市には今でも久米 「 くめ 」と呼ばれる地名が存在しています。

つまり、物語は両者が力を合わせて初代の地を守ったという内容です。


この地は 辛国 ( からくに ) に向かい 笠沙 ( 笠佐島 ) の御前を真来通りて 朝日のただ射す国 夕日の照る国なり

故 この地はいとよき地と詔りて 底つ岩根に宮柱ふとしり 高天原に氷木高しりて坐すなり


室津半島の前方部は「からと水道」に向いています。なぜ「から」なのかは塩づくりの意味を持っています。

下の二枚の写真は、どちらも大星山から朝日と夕日を撮影したものです。



朝日




夕日


古代の人々にとって大星山は、神々が語り合った特別な場所として存在していたのです。

だからこそ、初期の前方後円墳の前方部には大星山を模した小丘が造られているのです。



つづきにします。

良いクリスマスを。







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