写真日記

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2009-4-12 日
昨日の歴史の続きです。

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2009-4/11 土
昨日の歴史の続きです。

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2009-4/10 金
帰り道



会社の帰り道、写真撮影のポイントを確認しに
周防大島まで行ってみました。

大島からの帰り道、時間的に道路が混みそうなので、
だいぶ遠回りになりますが山側の道を通ってみました。

こちらの道はガラ空きで気持ち良く走れました。
中山のバス停にて、缶紅茶で一服。

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柳井市の石井湖にて、本日の夕暮れです。




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以下、歴史に関する事です。

「海風想」ではどうしても書けなかった事を載せます。
万葉歌や歴史にとって、とても重要な事です。

初めて御覧になる方は冷静に見てください。


(4月12日 18時30分 写真は削除しました。)


すでに多くの方が知っておられるようですので、
誤解の広がらないように、ここで早めに明確にしておきます。
上の写真をよーく見てください。

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もっと引き寄せてみます(下の写真)。

(4月12日 18時30分 写真は削除しました。)


石城山「夜泣石」の所から佐田を見おろした写真です。

夜泣石の万葉歌については「海風想」で説明しました。
破壊されたのは神籠石だけではないんです。
ヤマト中の捕虜を使って造ったのでしょう。

今は木竹に被われているから目立ちませんが、
もし木竹が生えていなかったら、と思うと、目を被いたくなる惨状です。

これを見ても、神代の人々はこの地を捨てて出て行かざるを得なかったことがわかります。

さらには、こうした怒りが近代の大戦で出てくる訳です。
そうした歴史の隠された部分を明瞭にしなくてはいけません。



これをどうするかは、今まで耐えて来られた地域の方々に権限があることは言うまでもありません。
この地はもう、写真と記録だけにとどめておき、現代の建設機械や技術を持ち、これらの丘を造成して、
わからなくするのが一番です。


これを造成して直すのに必要な費用の負担をどうするか、
古代までさかのぼって侵略国に負担してもらうか、
どうするか、それが大きな課題になりましょう。





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もうひとつ話しておきたい事があります。
誰にも付いている姓名についての話しです。

姓名について書いた本は数あれど、その起源について明瞭にした本を私はまだ知りません。
姓名の起源根源をたどってみますと、仏教の隆盛期にたどり着きます。
この辺で最古の記録は通称「般若姫物語」と呼ばれている「満野長者旧記」に
現代と同じ形の姓名の記録が見えます。

では、日本中の各家庭の姓は誰が付けたのかと申しますと、先に上げました仏教に
通じており、その名残りとして現代も法名(戒名)を付けてもらうという形で残っています。
昔の人々で文字の読める人はごく少数であり、百済の偉い坊さまが付けてくださったと
大事に寺に保存していた訳です。当時はその姓では呼び合わず、屋号で呼んでいたようです。
だから、屋号と姓の二通りの名が存在しています。

つまり、百済の偉い坊さんが門徒寺を通じて付けたのが今の姓名の起源です。

それぞれの寺の創建年は神社と同時代のものがほとんどであり、
新しい由来を被せられているものが多いわけですが、
それは各寺の方位を分析することによってわかります。

ですから、明治の廃仏希釈もそれなりに理由があるのです。



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4月11日 追記

昨日の続きです。写真は昨日と同じ物です。

屋号については、普段あまり馴染みは少ないと思います。
簡単に言うと、各家を呼び合うニックネームのようなものです。
そのニックネームが昔から続いて来たものが屋号になっています。
屋号の起源に関しては、万葉集に記載がありますので、如何に古いものか証明できます。
そうした古記録から考えると、先ず屋号があって、その後に姓名が来たことになります。



では、重要な佐田の話しに移ります。

ヤマトは「やまあと(山跡)」が起源になっていることは、この地の山々を見れば証明されます。
多くの山跡は種類別に区分されまして、その区分は大きく分けて3種類に分けられます。
ここでは仮にそれをAタイプ・Bタイプ・Cタイプと呼びます。

Aタイプは主に動物を主体にしてあります。
獅子(スフィンクス)、ネズミ、龍、兎、犬、熊、鳥、恐竜(カンガルー?)、クジラ(飛行船?)
などといった動物です。それらは平和な時期に造形されたのであろうと考えられます。

次にBタイプの方は、人を主体にしてあります。
人を主体にした造形のほとんどは、人物が寝ている(横になっている)スタイルで造形されています。
それを仮に涅槃像と呼びます。涅槃像の多くは残しても特別に問題のあるものは少ないのですが、
なかにはとんでもないのが混ざっていたりします。その問題像が何処に在るかについては、
今載せると、知らない人まで知ってしまうという悪い面があるので載せません。

次にCタイプ、これが問題なんですが、人の体の一部分だけを突出させた造形になっています。
先に載せた佐田などがそうです。それらは物語や歌に登場する侵略地に散在していますから、
侵略国の作業であることが証明されます。尻(臀部)を模った山は佐田地域だけでも数山もあります。


さて、Bタイプの一部と、Cタイプの形状をわからないように造成する必要があるわけですが、
今問題になっている岩国市の愛宕山開発事業の費用から推測しても巨額な費用が必要になります。
やはりこれは歴史に返って、国の考えで過去の侵略国と交渉する必要があろうかと思います。


では、その侵略国とは何処の国になるかは、記紀や万葉集などに記載してあります。
万葉集の歌がいちばんわかりやすいので、もう一度載せておきます。


万葉集 巻第1  9番歌

母郷 まどかとなりし たいそう萎え 宋へ付き 我が急こし い建てせりけむ 厳し賀茂と



中国の歴史年表を見ますと、なんで宋はあんなにたくさんあるんですか?
普通、どこの国でも同じ国名は使わないものです。混乱するからです。
歴史上の事実を共通国名を使って中和させようとしたような・・・。
あるいは、過去の手柄を新しい時代に移管しようとしたような・・・。
私にはそういうふうに受け取れます。よほどのことがあったのでしょうか?


日本の場合でも過去の史実を新しい年代に持って来た形跡はありますが、
時代名だけは換えています。


申し継ぎでやったと考えますと、いちばん最初の時代から考える必要があります。
最初の宋は春秋時代です。中国の年表でいきますと紀元前1100年頃になります。



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4月12日 追記


古事記の通称「神功皇后の新羅征討」の段に侵略された時の様子が隠し文で記してあります。
それを解読すると、新羅、隋、馬韓、百済などの国が出てきます。
もう一度載せてみます。


「軍勢、船を並べて門(海峡)を行きし時、貝腹の巣など大小問わず悉く。温泉負けて明け渡すのみ。
順風多く発ちゆく。温泉乱れるままに。故、その温泉の波乱、新羅の国、押し上がり、もはや中つ国に到る。
ここにおいて、箕の国の王移行。宋言う。「今より以後、天皇の命は隋にて、身を馬韓となす。」

年ごとに戦争。船腹の乾くことなし、梶櫂の乾くことなし。天地の友よ退くことなく仕え奉れ。

故、これをもって新羅の国は御馬甘と定め、百済の国は綿の屯家と定む。
難事その怨情をもって、新羅の国主の門に築き立て、
すなはち墨江大神の荒御魂を国守る神とし、祀り鎮めて(沈めて)遷都なり。」




わかりますか?
表面上では日本(神功皇后)が攻めて行ったと考えられていました。
実際は逆です。


「・・・難事その怨情をもって・・・」とある部分の解読は「・・・汝その恩情をもって・・・」とも解読できます。
新羅の国主の門に築き立て」とある部分にすべてが集約されています。
新羅とは、古代朝鮮の国名です。




戦乱が治まって後のこと、本来は香炉を持っている形で造形された所を
尻に見立てて高い神殿を築き立て、それを見おろしている形にして、
佐田の報復措置として見せしめにした訳です。





平和な国であっても、
いくら平和を謳(うた)っても、
遅れた国によって
平和は破壊されます。

そうして戦争は延々と繰り返されてきたのです。







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これにて、歴史日記はひとまず終了します。
明日からは通常の日記に戻らせていただきます。


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